【あのときの母とこれからの私】
これは今から10数年前、私は50歳代半ばの頃だったと思う。
写真の3人は私の母と母の親友(私は小さい頃から〇〇のおばちゃんと呼んでいたので、これからはおばちゃんと呼ぶことにする)そして私。
場所は京都駅の構内。山陽新幹線の新下関駅に向けて帰ろうとする直前である。
母とそのお供としての私が奈良に住むおばちゃんに会いに行って数泊の後、
おばちゃんご夫婦が見送りに京都駅まで来てくれたときの1枚で、撮ったのはおばちゃんのご主人だったのだろう。
当時、世間では立て続けの食品偽装や忍び寄るリーマンショックにせわしなかったけれど
スマホやPCは今ほど一般的でなく
テレビを切れば、喧騒は家の中までは入ってこなかった。
おばちゃんや母は、子供たちはとうの昔に自立して孫の成長を楽しみにしており
また私も子供に手がかからなくなって、自分の時間を楽しみはじめていた。
どちらの世代も いわばライフステージの踊り場にいるような平和な時だった。
おばちゃんと母は山口県下関市に生まれ育って、小学生の頃からの知り合い。
毎年開かれる女学校の同窓会にもおばちゃんは当時住んでらした奈良から参加していたけれど
この写真の頃にはもう身体の不調などで来るのが困難になっていた。
「会いに来てよ」との度重なるお誘いに、足弱になった母は私を荷物持ちにして奈良まで行くことになったのである。
奈良ではホテルの手配から様々なことにいたるまでおばちゃんご夫妻にはとてもよくしていただいた。
朝食が終わる頃にホテルを訪れるおばちゃんと母はベッドに横になって延々としゃべりつづけていた。
私はといえばそれを聞いていいものかどうかとも思うし、そもそも内容にそれほどの興味はないしで、一人で観光をしていた。
初秋とはいえ残暑の厳しい年で
興福寺の阿修羅像を観たり、あちこちにいる鹿に餌をやったり、奈良の商店街をブラブラしながら汗だくになって帰ってきても、まだ二人はおしゃべりの最中だった。
久しぶりにあった喜びからか、もうしばらくしたら別れるのがわかっているからか、あるいはもう会うことはないかもしれないという思いなのか、お喋りは尽きなかった。
最終日、おばちゃんご夫婦は奈良から京都まで一緒に出てきてくれて
ちょうど開催されていた若冲展を見て、帰りの車内で食べるようにと551の肉まんまでくださった。
改札を通った私達にずっと手を振り続けてくださって、そんなお二人を振り切るようにして列車に乗り込むことになった。
別れを惜しむ姿に「会うのはこれで最後なのかも」との思いがあったことを、私が切実に感じるようになるのにはもう少し時間が必要だった。
数年後、おばちゃんのご主人はなくなり、しばらく一人で暮らしていたおばちゃんとは連絡がつかなくなった。
「今から病院に入る」とたまたまかけた電話に答えたのが最後だったと母は言った。
その母も下関の実家での一人暮らしは困難になり、今ではうちの近くに転居して私が毎日通っている。
今から思えば これから来る老いの前の束の間の優しい時間だったのかもしれない。
そして、そう遠くないいつかにやって来る私の未来の時間かもしれない。
【この1枚の自分史を書いて】
昔の写真を眺めて、思い出にひたることはあるけれど、
この「1枚の自分史」では、
意図的に写真の状況を文字に落とし込みます。
これによって、その思い出がより鮮明になり
今の自分にどうつながっているかを深く理解することができます。
私自身も、この1枚の自分史を体験してみて
これらを実感しました。
過去の体験のひとつひとつにもに意味があったことに気づき
今の自分を肯定することができたのです。